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江東区について

東京都の東部、隅田川と荒川に挟まれた位置にあり、東京湾に面している。

江戸時代に埋め立てが始められた地域であり、江戸の東端にあたり、深川地区(旧深川区)には富岡八幡宮をはじめ神社仏閣が数多くある。区内陸部は古くから住宅地および工業地域として、亀戸には鶴亀の亀戸天神社、また錦糸町駅南側は遊興地域として発展してきた(ただし、錦糸町駅およびその南部は首都高速7号小松川線まで墨田区である)。また、区周辺部、特に臨海副都心や南砂地区などは大規模マンションや医療・福祉施設の建設が相次いでいる。豊洲地区や夢の島地区には子供向け施設が充実し、近年はマンション建設が相次ぎ人口が増加しているが、区による少子化に伴った小学校の統廃合が行われた後の人口増加のため、統廃合が行われた小学校では生徒の受け入れが困難な状況である。同様に、保育園も不足する事態に陥り、待機児童が増加している。

区内西部(東京市深川区に相当)は関東大震災および東京大空襲などを経て区画整理がされている。

区名は、隅田川の東に位置するという地理的な意味から、「辰巳区」、「東区」、「永代区」などの候補の中から選ばれた。

1947年(昭和22年)2月21日城東区会で、2月25日に深川区会で議決された。江東区の「江」は深川、「東」は城東の意味も含んでいる。

しかし、江東の地名はこの時初めて使われたものではない。すでに古くは江戸時代から使用されており、当時の江東という地域は、本所地区または深川地区を指す意味と、広く隅田川の東部を指す意味があった。

画家について

・伊東深水
歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったという。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。

1898年、東京府東京市深川区深川西森下町(現在の東京都江東区森下一丁目)に生まれる。伊東半三郎の長男。1905年、深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)に入学。同級生に伊東の友人となった関根正二がいた。

1907年、小学校3年で中退、以後は看板屋に奉公し住み込みで働く。1908年、職工となり深川区深川東大工町(現在の江東区白河四丁目)の東京印刷株式会社の活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う。1911年、鏑木清方へ入門し深川の水にちなむ「深水」の号を与えられる。この頃から実業補習学校に入学し、昼の勤務後、夜学に通い、夜中に絵を描くという生活が続いた。

1912年、第12回巽画会展に『のどか』が初入選。1913年、巽画会1等褒状。1914年、再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する。1915年、第9回文展に『十六の女』が初入選。1916年、渡辺版画店から第1作『対鏡』を発表、伝統的技法による新版画運動に参加、東京日日新聞などに挿絵を描く。1919年、好子と結婚し長男と次男をもうける。

1922年、平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌、同年中国大陸へ旅行。1927年、大井町に深水画塾を設立。1932年、人物画の再興を目指し「青々会」を設立。1935年、料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうけた。1939年、再び中国大陸へ旅行。1943年、召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする。

太平洋戦争のさなか、東京が空襲に見舞われると1945年3月から1949年8月まで長野県小諸市に疎開する。1948年、『鏡』で第4回日本芸術院賞受賞。1949年、鎌倉に転居。1950年、白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる。1958年、日本芸術院会員に推挙。1972年、癌により5月8日没。享年75(74歳没)。墓所は品川区上大崎の隆崇院にある。法名は画光院一誉明澄深水大居士といった。

・高野三三男
高野 三三男(こうの みさお、1900年3月30日 - 1979年8月15日)は、東京府東京市深川区(現・江東区)出身のフランスと日本で活躍したアール・デコ様式の画家。パリのモンパルナスで活躍したエコール・ド・パリに括られる。

府立一中を経て東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を中退後、1921年本郷洋画研究所に入所し、岡田三郎助に師事する。翌年の1922年に東京美術学校(現・東京藝術大学)洋画科に入学する。1924年関東大震災による復興の騒ぎで落ち着いて絵画の制作が出来ないことから同級生の岡田謙三や高崎剛、後に妻となる岡上りうらと共に渡仏する。

渡仏後は、個展の開催やサロン・デ・ザンデパンダン、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ナショナルなどの展覧会に出品し、フランス画壇に認められるようになる。女性の寝室を描いた絵画(ブドワール・ピクチャー)やコロンビーヌやアルルカンといったイタリア喜劇のモチーフを得意とし、1930年フランス政府に買い上げられた《仮面舞踏会の夜》も同様のモチーフと思われる。

1940年藤田嗣治とともに帰国。帰国後一水会の会員として、毎年作品を出品し、中心的存在になる。その他にも文展、日展等の審査員を歴任し、1954年には現代日本美術展で大衆賞を受賞する。1979年肺血腫のため、品川の病院にて没する。

娘はピアニストの高野耀子。

・内藤隶
 官展を中心に活躍した洋画家、明治33(1900)年4月21日、東京都江東区に生まれる。本名能福。東京府立第三中学校を中退して本郷絵画研究所に入り岡田三郎助に師事。大正15(1926)年第7回帝展に「花畑」で初入選し、9回帝展には「初秋の丘と庭」、10回展には「初秋」を出品。新文展にも第1回展から「木蔭の池」で入選し官展に出品を続ける。庭に取材した作品が多く、色彩豊かで穏やかな作風を示す。春台美術展に参加して同会会員、委員となり、また千葉県美術会創設委員となって郷里の美術振興に尽くし千葉県展名誉会員となる。晩年は無所属となって画壇を退いた。
1988年老衰のため千葉県大原町の自宅で死去した。享年87。

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